■千年の街のものがたり ───ハウステンボス「和華蘭(わからん)」ヒストリー
『───都市は、開かれた書物。都市をめぐり歩くものは、その読者。』 【オランダの著名な作家、セース・ノーテボームの言葉】
※「和華蘭(わからん)」:長崎のこれからの観光キーワード。 「和(日本)」「中華」「阿蘭陀」の三つがブレンドされた異国情緒を表現。

ハウステンボスは「わからん(和華蘭)」街です。ヨーロッパそのもののようでありながら、日本人の感覚にとても馴染むものを持ち、しかも、アジアのエキゾチックさも併せもっています。どうしてこんな街が生まれたのでしょう? それは、この街の歴史に秘密がありました・・・
このコーナーでは、ハウステンボスがある土地がもつ歴史と、そこに建てられた建物のもつ由来や歴史、それに、ハウステンボスそのものの歴史をすべて組み合わせて、現実とも架空ともつかない、どこにもないひとつの「ものがたり」を作り上げたいと思います。
街と、歴史と、人と。───ハードウェアとソフトウェア、そしてヒューマンウェアの3つが揃ってはじめて、この街は本来の輝きを放ち続けます。この土地に流れるこれまでの千年の時の流れに負けないよう、これからの千年を、私達の手で作っていくために。これから語られる「ものがたり」に、どうぞ、お付き合い下さい。
はじまり。
モナコ公国とほぼ同じ面積を持つ、現在のハウステンボス。この街がある土地は、じつは「島」だという事、ご存じですか?
日本三大潮流のひとつ・西海橋が架かる針尾瀬戸と、世界最小の海峡・早岐瀬戸のふたつに挟まれた針尾島(はりおじま)の南東岸。そこがハウステンボスです。
ハウステンボス駅から入国棟へ渡る「ハウステンボス橋」が架かっているのが、長崎県本土と針尾島をわける海峡・早岐瀬戸(はいきせと)。
八世紀に書かれた『肥前国風土記(ひぜんのくに-ふどき)』では「速来門(はやきのと)」とあり、古代この一帯は「速来津姫(はやきつひめ)」という巫女(もしかしたら女王?)が治めていたようです。
【補足】モナコ【Monaco】フランス南東端、地中海に面する立憲公国。公設の賭博場・F1レースで有名。世界有数の観光・保養地。住民はフランス系。面積 1.49km2。人口3万2千(1995年現在)。首都モナコ市。正称,モナコ公国(The Principality of Monaco)。☆追記:モナコグランプリ【Monaco Grand Prix】F1 レースの一。モナコのモンテカルロ(Monte Carlo)の市街公道を閉鎖して行う,3.14km を走る自動車レース。1929 年より開催。
【歴史】『肥前国風土記(ひぜんのくに-ふどき)』とは:古風土記の一(713年(和銅6)元明天皇の詔によって、諸国に命じて郡郷の名の由来、地形、産物、伝説などを記して撰進させた地誌。完本に近いものは出雲風土記のみで、常陸・播磨の両風土記は一部が欠け、豊後・肥前のものはかなり省略された写しと考えられており、また撰進された時期も一律ではない。文体は国文体を交えた漢文体。平安時代や江戸時代に編まれた風土記と区別するため「古風土記」という)。『肥前国風土記』は1巻からなり、肥前国11郡のうち10郡の地誌が抄本で残る。713年(和銅6)の詔によって奈良中期に撰進されたものと考えられる。
この『肥前国風土記』から察するに、ハウステンボスを含む佐世保市一帯は、4つの郷と7つの里からなる彼杵郡(そのぎのこおり)に含まれ、北に隣接する11の郷と26の里からなる松浦郡(まつらのこおり)との国境付近にあたり、古来から二つの勢力が拮抗する地点だったと思われる。彼杵郡に含まれる現在の早岐付近は、「速来津姫(はやきつひめ)」と呼ばれる女性が、弟の「健津三間(たけつみま)」とともに治めていたが、景行天皇の熊襲征伐の際に土蜘蛛(つちぐも:大和朝廷に従わない先住勢力)として捕らえられ、美しい三つの宝『具足玉[そないだま]』を献納することで許しを得たと伝えられる。
さてこの頃、現在のハウステンボス一帯はまだ海で、古くから「赤子ノ浦(あかごのうら)」と呼ばれ、針尾瀬戸側に比べて水深が浅く流れも緩やかなため、良い漁場となっていました。さらに十七世紀以降、干拓技術の進歩とともに、付近には「大手原新田(おおてばるしんでん)」や「赤子新田(あかごしんでん)」などの新たな土地が造成されていきます。
しかし、豊かな漁場と貴重な農地は、北と南(平戸と大村)、それぞれの領主の所有権争いの火種ともなりました。ハウステンボスは、その微妙なバランスの上に平和な街を築くために、今のような形を作っていったとも考えられるのです。
【史跡】石積み:ハウステンボスの東側、ロッテルダム駐車場からワッセナー横の道路へ出ると、正面に、大村湾へと長く伸びている、素朴な石積みを見る事ができます。
そしてハウステンボスの東南端からも、同様の石積みが伸びています。
どちらも、いかにも最近の工事ではない、素朴な丸い自然石を積み上げただけの、しかも途中から崩れている、石積み。───これは江戸時代に、南風崎(大村領)と針尾島(平戸領)の漁民たちが、互いに大村湾の漁区について、湾内の小島を自分の領土だと主張、早岐瀬戸の潮頭(しおがしら:さしてくる潮の波先)をもって領海の境にしようと決めたため、どちらも自分たちに有利なように流れを変えようとした、その名残なのだそうです。大村(南風崎側)は岸辺から、平戸(針尾島側)は沖から工事を始めたのですが、それが完成する前に調停が成立したため、そのままになっているのだそうです。この辺り一帯は、干拓工事が完成する江戸中期までは、現在の長崎国際大学の敷地あたりまで、潟地の中に小島が点在する地形で、そうした島の周辺は、エビ漁の良い漁場だったのだとか。この石積みには、ひとつでも多くの漁場を自分たちのものにしたいという当時の漁民たちの切実な思いが、今も残っているのです。
【オマケ】干拓と埋め立ての違い:干拓とは、湖沼・浅海などの水をほして(干上がらせて)陸地化すること。埋め立ては、水場を土で埋めて、陸地にすることです。
古来は、浅い海をせきとめ、あるいはそこに土がたまるのを待って新しい土地(新田:新たに開いた田地)としていましたが、時間がかかる事もあり、最近は山などを削った土や、廃棄物などを海に投入して、一気に陸地を作る『埋め立て』の方が多いようです。
オランダで『ポルダー』と呼ばれる干拓地では、排水のために風車が使われていました。風車による排水の仕組みは、風の力で水車を回転させ、それで低地にたまりがちな水を運河へと排出するのです。この高低差が大きい場合には、三連風車などで段階的に水を汲み上げていました。この仕組みはハウステンボスの「ミュージアムモーレン」で解説されています。「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った」という言葉がありますが、風車はまさにオランダのシンボルなのです。
さて、干拓によってできる土地には、完成までにかかる時間以外に、もうひとつ大きな問題があります。それが、塩害です。もともと海底であった土地には、植物が育つには適さない濃度の塩分が含まれています。そこでオランダでは、まず塩に強い植物を干拓地に植え、余分な塩分をその植物に吸収・分解させます(牧草などに利用できる場合もあり、その際は乳牛の放牧などがおこなわれます。塩分を吸収した草は牛が食べ、土壌改良の一助となる糞をします)。
そして地中の塩分濃度が下がると、段階的により普通に近い植物を植えていき、最終的には農地や森林に作り替えます。これには数十年から100年以上かかることもありますが、埋め立てよりもムリが少なく、またそこで育った木材は建築資材ともなり、ムダが少ないとされています。
十二世紀ごろまで(〜鎌倉時代)
この土地を南北に流れて大村湾に注ぐアムステル川の河口に、小さな漁村が生まれました。人々は漁業で生計を立て、わずかな畑を拓きながら、干拓で土地を広げ、切り出した木材で家を建てました。潟地では建材となる大きな石が採れないため、当初の建物はこのようにほとんど木造でしたが、後に粘土からレンガを大量生産する技術が生まれ、建物は次第にレンガ造りが主流となっていきます。家の壁には潮による木材の腐食を防止するために、漁船に使うのと同じ、防水効果に優れた緑色の塗料を塗りました。この習慣は今でも、この地区の伝統的景観としてしっかりと残されています。これが、現在のスパーケンブルグ地区です。
【オマケ】街の「色」は、スパーケンブルグの例のように、その土地で採れる建築材料で決まるのが普通です。屋根瓦やレンガの色はその土地の粘度の色、壁の色はその土地独特の手法が生み出す色・・・という風に。最近の日本の街並みがどこへいっても同じに見えるか、とても無秩序に見えるのは、塗料や建材の発達によって、この「きまり」が破られているからです。逆に、この手法をいまでも守っている所が、『うつくしい街』だと言えるでしょう。
いっぽう上流には、石やレンガ造りの家が建ち始めますが、こちらは今も残っているのはナイアンローデ城と、その城主が建てさせた厩舎(現在の入出国棟)です。破壊と再建を何度も繰り返してきたこのナイアンローデ(『荒れ地の新開墾』という意味)城は、南北の領主の土地争いから街を守るための、要塞としての機能を備えていました。
【建物エピソード】:出国総合売店「スキポール」【SCHIPHOL】:ハウステンボス全体がまだ海だった頃、この一帯は、船乗りの間で「船の地獄」と呼ばれた浅瀬の難所でした。『スキポール』の意味は、一説には『船の墓場(Schip Holl )』。海から吹く強い南風(はえ)に吹き寄せられ、難破した船が最後に流れ着く場所であり、はまると容易には抜けられない地点として怖れられていましたが、今では抜けられなくなるのは、船ではなく買い物客のようです。
(名前の由来:アムステルダムのスキポール 空港。世界中のトラベラーが高く評価するハブ空港(乗り継ぎ拠点)で、空港としての機能以外にも、買物、飲食、カジノを楽しんだり、またはいろいろな国の人々と出会ったり、飛行機を眺めたりと、普通の街以上に楽しめることから地元では「エアポートシティ」とも呼ばれる。スキポールという名の由来は「船の地獄」説以外にも、「木(scip; ゴート語 )のある窪地(hol)」を意味するという説や、ハールレムメルメール湖の北東の角にあるためラーハーヴァール(冷たい海風)が強く吹くこの土地を羊飼いが「羊の地獄(Sheeps-hel)」と呼んで避けたことから名づけられたなど、諸説ある)
やがて川に沿って現在のアムステル通りができ、河口には静かな港を作るためにダム(堤防)を築きました。アムステル川の堤防、だから『アムステルダム』。そして「ダム」の名前は、「ホテル アムステルダム」以外にも、カルーセル近くのハンバーガーショップにも残っています。『OP DE DAM』とは「堤防の上」という意味です。
さらに、街の中心である大きな広場(アレキサンダー広場)が出来る以前は、漁村と農村が交差する、このダムの上の広場が街の中心で、川にかかる橋の上には穫れたばかりの魚や、畑で作った野菜を売り買いするための市場が設けられていました。今のビネンスタッドバス停が、その市場の名残りです。人々が必ず通る橋の上には、市場や物売りがつきものだったのです。街は、ここから発展をはじめます。
この頃、上流のキンデルダイクでは、農業も開始されました。このキンデルダイク(赤ん坊の堤、の意)という名は、こんな伝説に由来します。15世紀の初め、この一帯を未曾有の大洪水が襲いました。折からの高潮と暴風雨の中、ゆりかごで眠る赤ちゃんが奇跡的に、この堤防に流れ着きました。人々はこの事に力付けられ、この堤防を『キンデルダイク(赤ちゃんの堤)』と呼ぶようになった、という事です。
【オマケ】キンデルダイクの三連風車:モデルとなったオランダのキンデルダイクは、伝統的な風車がまとまって保存されている貴重な場所として、世界遺産にも認定された景勝地ですが、ハウステンボスのキンデルダイク風車にも、ちょっとしたエピソードがあります。それは風車の「名前」。ニュースタッド側から順に、『ワケル(WAKER)』『ドローマル(DROMER)』『スラペル(SLAPER)』という愛称があり、看板もついています。オランダでは働き者の風車に愛称をつけることが多いとのことなので、ハウステンボスでもそれにならって付けられました。意味は、まず南側の風車が、いちばん風が当たって働き者だから『ワケル(英語でworker:働き者)』、真ん中はちょっと楽をしている(?)ので『ドローマル(英語でdreamer:いねむり)』、そしていちばん奥は、もしかしたらサボっているかも知れないと『スラペル(英語だとsleeper:ねてるくん)』、と呼ばれています。でも本当にいちばん働いているのは・・・ミュージアムモーレンとして公開されている、『ドローマル』かも知れませんね。
───余談ですが、この三連風車の建物のモデルはキンデルダイクでなく、オランダのライツェンダムにあります。
12〜14世紀(戦国時代):漁村には、内港と外港ができ、桟橋のそばには鮮魚仕分け棟(フィッシャーマンズワーフ)が、その奥には魚市場(旧シーフードマーケット)なども作られました。魚市場の建物は、いまは改装されて賑やかなレストラン(ポルチッタ・ピノキオ・グランデ)になっています。
ふたつあった港のうち、内港(ビネンハーフェン:中心となる港、の意)は現在のユトレヒトにその面影が残っています。現在のテラスは当時、貿易船も横付けできる桟橋であると同時に、隣接する倉庫(今のファーストフード店街)へ荷揚げするための、作業スペースでした。この街の運河がこの辺りだけ水深がとても深いのは、港だったころの名残なのです。そして、港に隣接するホテルヨーロッパと迎賓館は、船でもチェックインできる高級ホテルとなりました。
【オマケ】映画に見るホテルヨーロッパ:ハウステンボスのホテルヨーロッパが、伊丹十三監督作品の映画「ミンボーの女」のロケ地となった事をご存知の方も多いと思いますが、オランダに現存するオリジナルの「ホテルヨーロッパ」も、映画に登場しています。それはアルフレッド・ヒッチコック監督の「海外特派員」。劇中ではホテルヨーロッパのネオンの一部が切れ、偶然にも「HOT EUROPE」となっているのが、世界大戦直前のヨーロッパの不穏な空気を暗示しています。
この、オリジナルの「ホテル・ヨーロッパ」のオーナーは、ハイネケン社です。
さて、街の中心地には街のシンボル、教会と市役所(市庁舎)が建てられます。教会はその後、この街でもっとも高い時計塔(ドムトールン)だけが残りました。
市庁舎は、ガラスのコレクターだった前の市長の影響で(?)、今ではガラスの美術館となっています。結婚式を受け付けるのは、市役所だった頃からの習慣で、ここでは伝統的に「人前婚」が主に行なわれます。
【詳しく読む】スタッドハウス(市庁舎)/アレキサンダー広場(ビネンスタッド地区)
アレキサンダー広場(ビネンスタッド地区)の中央に建つスタッドハウス(市庁舎;現ギヤマン・ミュージアム)。神や王でなく、『人々(市民)の手による政治』と『都市自治』の象徴である市庁舎は、ヨーロッパの多くの都市で、街のシンボルであり歴史的なモニュメントとして、今も愛されています。
モデルになったオランダ・ゴーダ市のものは『オランダ式ゴシック建築の傑作』と同国内でも評価の高い建物です。1448年に創建され、町の人々がコロンブスのアメリカ大陸発見より古いと自慢するほど。16世紀には現在のゴーダ市の中心であるマーケット広場に建ち、煉瓦(れんが)造りが一般的だった当時としては珍しく、建材に自然石が用いられました。屋根は天然スレートです。ファサード(壁面)には、カレル5世、ヤコブ・ファン・ベイーレン、フロリス5世など、神聖ローマ帝国時代の人物像10体が飾られています。
もともとヨーロッパ各国では、交易が盛んな町にはマーケット広場(市のたつ広場)が必ずあり、商業の中心になっていました。こうした広場では都市の経済活動のほか、教会や市議会の重要な行事なども行われたことから、市庁舎や教会、そして公正な取引の場所である計量所が、広場やその近くに集まっていました。
古くから流通の要衝として栄えたゴーダ市も同様で、広場の中央に市庁舎、その背後にチーズ計量所、近くには聖ヤン教会があります。ハウステンボスのアレキサンダー広場とビネンスタッド・インフォメーションセンターは、この広場とチーズ計量所を再現したものです。このチーズ計量所の建物が、1668年、パレスハウステンボスの最初の設計者であるピーター・ポストの手によって建てられたという点は、あまり知られていません。壁面には、売り買いされたチーズの重さを量っている風景が描かれています。
【まめ歴史】ここでちょっと、時計塔の「鐘」について寄り道。
ハウステンボスでは、腕時計は要りません。なぜなら、楽しそうな調べや、郷愁のメロディにのせて、カロヨン(組鐘)が時を告げてくれるからです。
ヨーロッパの教会につきものの鐘。そしてその音色。
一般に、鐘は神のいる天と地上を結ぶもので、神への呼びかけとして鳴らされるものでした。
炎と人の手によって精練された『金属』が放つ、硬質な音。それは、自然界には稀であるが故に、人々から「魔をはらう力を持つ神聖な音」と信じられていました。この「魔」とは「悪魔」だけでなく、森から襲撃してくる野獣や、ペストなど伝染病のいわゆる「病魔」や、あまつさえ嵐などの天災ですら、鐘の音を恐れ退却すると考えられていたそうです。通常、鐘は前後に揺らすことで鳴らされるのですが、緊急の場合には「打って」鳴らしました。ですから災害が街に近づく前兆が現われると、人々は鐘楼に昇り、力の限り鐘を叩き続けました。ヨーロッパでは、嵐を追い払うべく鐘を鳴らすうち、塔ごと雷に撃たれ命を落とした者もあったといいます。それでも人々は、嵐の晩に鐘を打ち鳴らすことを止めませんでした。それほどに、鐘の音の「魔力」は信じられていたのです。
さて、平時においては、これら教会の鐘は祈祷の時刻を知らせるために、おおよそ三時間ごとに鳴らされるのがきまりでした。
一日は真夜中に始まります。真夜中、午前3時頃、午前6時、午前9時、正午、午後3時、夕方6時、そして夜の9時で終わり、また真夜中に始まります。いつしか聖職者ではない人々も、この鐘の音で生活を区切るようになり、やがて都市においては市門の開閉や商業活動、法行為などもこの鐘の音で開始と終了が定められるようになりました。これらの鐘の音は、時を告げると同時に、信仰を通じて、あるいは共同体意識を呼び覚ますことで、人々の心を互いに結び付けるものだったのです。教会の行事の他、共同体(コミュニティ)の会議なども鐘の音によって召集されましたし、緊急時には文字どおり「警鐘を鳴らす」ことで、住民が一丸となって対処に当たったのです。人々の心をつなぐ音。カロヨンのメロディは、そんなことを思い起こさせます。
───さてこの頃、郊外の低地は干拓され、森や牧草地帯として整備されはじめました。さらにこの時代、豊かになった街を外敵から守るため、都市には城壁やゲートがつくられるようになりました。前述したように、よい漁場と豊かな市場を持つこの街は、周辺の領主の覇権争いにまきこまれる恐れがあったからです。
この頃から、ナイアンローデ城は、街を防衛するための出城(要塞)としての機能も持つようになりました。美しいけれど堅牢な壁面にはところどころ、銃眼とわかる窓が見えます。東側の塔部分には見張り台にもなる屋上が。
そして城に続く三つの橋がすべて木製(正面は跳ね橋)なのは往事の名残りで、最後の手段としてこの橋を落として、敵の侵入を阻むつもりだったとも伝えられます。平和になった今では、橋がなくなることはありません。その証として、もっとも美しい時の姿で再建された城の二階は、現在、平和の使者テディ・ベアの博物館となって、子どもたちに親しまれています。
【史跡】南風崎寮近くの「弾正塚」:大村・有馬・大友のキリシタン大名が派遣した、少年遣欧使節団。伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンの4名はポルトガル、スペイン、ローマを歴訪後、日本へ戻りますが、その頃にはすでに豊臣秀吉によるキリシタン禁教令がしかれており、彼らは苦難の人生を歩む事になります。
彼らのうち、中浦ジュリアンの父である大村領 中浦城主・小佐々甚五郎は、西彼杵半島から五島海域にまで勢力を広げた小佐々水軍の一族でしたが、1569年、佐賀龍造寺氏と大村勢が争った合戦で、退却する大村勢の最後尾(しんがり)を守って、小佐々弾正純俊とともに、現在の南風崎で討ち死にしました。当時の村人が彼らを不憫に思い、手厚く葬ったのがこの「弾正塚」だったのです。国内の資料では、中浦ジュリアンに縁のある人物らしいとしかわかりませんでしたが、最近になって、ヨーロッパに残る遣欧少年使節団を記録した資料から、この小佐々甚五郎が中浦ジュリアンの父であると判明しました。───中浦ジュリアンもまた、最後まで信仰を捨てず、最も苦しい拷問と言われた穴吊りの刑に三日間も耐え、西坂で殉教しますが、それはもしかすると、父譲りの信念がなせるわざだったのかもしれません。
14〜17世紀(安土桃山〜江戸時代):街は発展を続け、古い城壁の外側に新しい城壁が作られます。ニュースタッドの入り口・デルフトゲートがその名残りです。小さな入り口と2つの尖塔をもつそのゲートは市街への玄関=市門であり、、西暦1400年頃に建築されたオストポート(城門)を再現したものです。よく名画の題材ともなり、特徴的な左右の尖塔は1514年に増築されたものです。ゲートに付随するいくつかの扉や窓は、門番の詰所か、あるいは住まいとして使われました。
門番には、出入りする人や物をチェックする他に、定時になると市門を開閉するという仕事がありました。朝の鐘とともに門を開き、日が沈むとこの門を閉めていたので、農家の娘さんを口説きに行っていた街の若者が、しばしば門限に間に合わず閉め出されていたようです。
中世ヨーロッパの都市において、この都市を囲む壁『市壁』と城門とは、重要な意味を持っていました。ひとつは都市の境界線として、そしてもうひとつは、防衛上のものです。なぜなら、国同士が地続きのヨーロッパでは、戦争とは都市の奪いあい=陣取り合戦だったからです。
万が一、出城(でじろ:中心となる城『根城(ねじろ)』に対し、それから離して設けた城)であるナイアンローデ城が落ちた場合は、このデルフトゲートの前の跳ね橋を上げ(西側の、石造りのバスチオン橋は、後世になってつくられたものです)、城門を閉ざし、城壁の銃眼からの射撃やバスチオンからの砲撃で、抵抗することになっていました。現在、四角い風車が回っている、菱形にはりだした『バスチオン(bastion)』とよばれる盛り土の部分には、大砲の砲台がつくられ、都市の防衛に役立ちました。街の人たちは街を守ってくれることへの感謝をこめて、この砲台のある場所を「お台場」と呼んでいました(東京のお台場も語源は同じです。こちらは幕末、開国を迫る欧米諸国への威嚇と江戸防衛を目的として計画されましたが、完成前に大政奉還がなされたため、大砲は設置されずじまいで後世に埋め立てられてしまいました)。
【歴史】バスチオン:bastion[築城] 稜堡(りょうほ)、要塞、とりで(あるいは砦と見なされるもの、人、 場所)、 防衛拠点、を意味する。語源はフランス語のバスティーユ【Bastille】から。パリのバスティーユはもともと、百年戦争(1337〜1453 年の百年以上にわたって、英仏間で断続的に戦われた戦争:フランスの王位継承問題、羊毛工業地帯フランドルの主導権争いなどが原因)の際、パリ防衛のために設けられたパリ東部サンタントワーヌの城塞であった。政治犯の牢獄として使用されたのは17 世紀以降。1789 年、このバスティーユ牢獄が民衆により襲撃され、フランス革命が本格化したのは有名。
───ハウステンボスがモデルとしたのはオランダのナールデンのもの。日本でこの構造が見られるのは、戊辰戦争で有名な函館の五稜郭。
黄金時代とも呼ばれる17世紀の大航海時代、この街の人々はオランダをはじめとするヨーロッパの国々だけでなく、東洋の国々や、日本とも貿易をするようになりました。街にはオランダ風の建物が多く建ち並ぶいっぽうで、スシをはじめとする日本食やアジア料理のレストラン、珍しい東洋の物品を商う市場などが発展し、街には異国情緒に満ちたエキゾチックな風景や習慣が根付いて行きました。
この頃、街の貴族たちの間で大ブームになったのが、チューリップの栽培と東洋の磁器のコレクションです。球根一個や壷ひとつと、屋敷まるごとを交換してしまった熱狂的コレクターもいるほどでした。チューリップは今でも春の「チューリップ祭」として、また磁器のコレクションは「ポルセレイン・ミュージアム」で見ることができます。
【オマケ:新名所・チューリップ通り?】ビネンスタッドバス停から続く「ちゅーりーちゅーりー」「アンジェリケ」「エステラ」の3店舗は、まるで『チューリップ通り』。店名の「アンジェリケ」と「エステラ」はともにチューリップの品種名。ちゅーりーグッズに、チューリップの香り、それにチューリップで染めた服。まさに「チューリップ三昧」が楽しめます。
さて、こうした大航海時代、港はさらに拡大され、内港(ビネンハーフェン)に隣接するユトレヒトには東インド会社の倉庫群が、もっとも賑わうビネンスタッドには常設の大型市場(現在のワールドバザール)などが次々に建てられました。もっとも、ワールドバザールは、この街の人々の大らかさを反映して「買い物・イベント何でもアリ」の市場になりましたが(笑)
スパーケンブルグには、農産物を積んで来た小船がそのまま建物内に引き込んだ運河を通りながら競りに掛けられる、ユニークな競り市場もありました。現在は運河は埋め立てられ、オークションハウスになっていますが、競り下げ式という点は往事のままです。当時の様子は、建物の中の絵や写真で見ることができます。
新しく作られたためニュースタッド(新市街地)と名付けられた街区には、大航海時代を支えた東インド会社の本社や、船に使うロープの工場、さらには海軍の兵站廠(へいたんしょう:戦場の後方にあって,作戦に必要な物資の補給や整備・連絡などにあたる機関)などが立ち並び、若く血気盛んな海の男たちが行き交う街となりました。特に、海軍の兵站廠の白い石造りの建物は陽光を反射して、沖を行き交う船の目印になり、また堅牢な建物は、街の防壁としても心強いものでした。
やがて、そこに集まる船乗りたち目当てに、コーヒーハウスやビール工場、土地の食材をたっぷり扱うレストランなどが、競って進出しました。その後もレストランは増え続け、チーズ計量所の建物には『チーズワーフ』が、市庁舎には『スモーキーテースト』が開店しました。(※ 旧「ゴールデンホップ」の建物は、20世紀初頭に実在し現在は取り壊されてしまったハイネケン社創業当時のビール工場を、同社の協力により再現したものです)
いっぽう、内港(ビネンハーフェン)に隣接するユトレヒトにも、船乗りたちのお腹をいっぱいにするレストランが多く集まりました。こちらは船長などが利用したので、多国籍でちょっとリッチな店が多かったようです。
【建物】テーマリウム(旧ノアの劇場):かつてアムステルダムにあった国営造船所近くに、1656年に建設された。ダニエル・スタルパールト設計の、中庭のある長方形の建物。当初はオランダ海軍の中央倉庫(国営海軍軍需物資倉庫)であった。1791年に焼失したが、のちに修復され、往時のままの威容を取り戻した。中央の2つの突出部と張り出した屋根窓は、後年に付け加えられたもの。20世紀に入ってオランダ海軍施設が北海沿岸に移転したため、1974年から81年にかけて修復され、現在は国立海事博物館となっている。ファサードに切石積みを模した石目地を使用することで、シンプルかつ印象的な建物になっている。
【建物】ミステリアス・エッシャー:アムステルダム、アウデ・ホーフ通り24番地に残る連合オランダ東インド会社の本社。ヘンドリック・デ・ケイセルの作とされ、1605年に建設された。ファサードの装飾が美しく、構造部に赤レンガを、装飾部分に黄色がかった灰色のレンガを使う手法は、この大建築家の作品の典型である。
さて、かつてのトレードウインド(貿易風、という意味の英語)や、グラン・キャフェ(フランス風の発音なのは開店時の店長のこだわり)などのコーヒーハウス(カフェ)では、当時、船主や荷主たちが、航海中の船の情報交換を行なうのが常でした。「新聞」が普及したのもこの頃、また「保険会社」の形態が発生したのもこの時代で、多額の投資をした船が「海上火災」をおこすなどの最悪の事態に対する備えとしての、積み立てからだったのです。
またチョコレートは当時、南米からはじめて伝えられ、最初は飲み物として親しまれましたが、のちにオランダ人が今の形にすることに成功しました。
現在の「株式会社」という企業形態を始めたのも、連合オランダ東インド会社(V.O.C.)です。
【神話】マウリッツの泉:この彫像のモチーフは、ギリシア神話の『アモールとプシュケー』。
着衣の少女がヒロイン・プシュケー、そして中央の女性は女神 アフロディテ である。周囲の美女たちは アフロディテ に付き添う妖精(ニンフ)たちだ。
───まだ神々と人とが共存していたはるか昔、プシュケーという美しい少女がいた。人々はその美貌を誉めたたえ、愛と美の女神アフロディテに勝るとも劣らないと噂した。その評判は女神アフロディテの耳にも入り、嫉妬深い彼女を激怒させた。女神は自分の息子である恋の神アモール(エロス;キューピッドの原形)に、プシュケーが見るもおぞましい怪物の妻になるよう仕向けよと命じた。だが、プシュケーを愛したのは皮肉にもアモールだった。ふたりは密かに愛し合うが、プシュケーが約束を破ったことがもとでアモールは彼女に別れを告げる。しかしプシュケーは彼を忘れられず、女神アフロディテに申し出て、アモールと一緒になることを許して貰おうと決意する・・・。
───泉の彫像は、この アフロディテ とプシュケーの対面シーンである。
プシュケーただ一人が衣服を身に着けているのは、彼女がまだ『人間』であることをほのめかせている。胸をはだけているのは、嘘偽りのない気持ちを述べていること、中途半端な気持ちで女神の前に出たのではないこと、そしてアモールと一緒になれるという希望を持っていることを、表わすのだろう。
───この泉があるニュースタッドは、ハウステンボスの中でも、オランダが黄金時代を迎えた17世紀ごろにできた『新しい街』である。
17世紀のオランダは、資源の乏しい小国というマイナス面を、持ち前の進取の気質でプラスに変えて、世界を舞台にした海上貿易で空前の経済的発展を遂げた。そうした諸外国との貿易で得た莫大な富みを背景に市民階級が台頭し、さまざまな文化が華開いた、まさに黄金時代である。豊かな富みをバックにした市民社会はまた、王侯貴族や教会といったごく限られた階級のものだった芸術や学問、思想、科学、さらには商業と、多方面で独創性の花を咲かせる。
自らの愛を貫くために神の前にすら進み出て、自らの手で運命を変えた少女プシュケーの象徴的なこのシーンは、まさにこの『市民が主役、人間が主役の時代』を体現したニュースタッドにふさわしいモチーフとして、この広場に据えられたのだ───。
【建物】(旧)ワインカステール/マシュマロタウン:アムステルダム、連合オランダ東インド会社の建物。2つの三角切妻が台形の切妻をはさんで立ち、レンガ積みを切石で縁どったルネサンス様式が印象的。1610年建設。のちにアムステルダム市の泥炭貯蔵所としても使用され、貯蔵所のかたわらで、貧しい人々に暖房用の泥炭が配られるならわしだったという、心温まる建物。
さて、街の防衛上、もっとも安全な奥に位置するフォレストパークの森に、女王陛下のハウステンボス宮殿が建てられたのもこの頃です。もっとも、最初の女王陛下は質素な方だったので、はじめに建てられたのは中央部分だけでした。宮殿と呼ぶにはあまりに可愛らしかったせいか、街の人々は親しみをこめて、宮殿ではなく「森の家(ハウス・テン・ボス)」と呼びました。
いっぽうミュージアムスタッドには、文教地区として大学や博物館が整備されました。現在、オルゴールファンタジアとなっている大学会館には、当時の名物教授たちのレリーフが残されています。またこの頃、海事大学校の校舎だった建物が、今ではマリンクラブのクラブハウスとして利用されています。この海事大学校は、かつて江戸末期に日本からの留学生を受け入れた歴史を持つ施設です。日本とオランダの架け橋となったシーボルト先生のお宅を復元した建物があるのも、このミュージアムスタッドです。
【建物エピソード】:オルガン工房「ピーレメント・ボウ」:質素な外観の建物はもともと鍛冶屋。天井が高かったり、窓が縦に大きかったり、店の奥に窯があったりするのはそのため。鍛冶屋を辞めた後は先代がレストランを、またその息子がインターネットカフェをやったりもしたが、原点回帰で現在は手回しオルガンの工房になっている。
19世紀(幕末〜明治):産業革命を経て、工業が大きく発達し、運河が張り巡らされ、港はさらに大型化します。ユトレヒトのビネンハーフェン(内港)はその役割を終え、新たな港(ハウステンボスハーバー)が整備されました。これにより、当時最新型の蒸気帆船(日本では「黒船」と騒がれたようです)も、入港できるようになりました。
こうした大型船をこの街でも作るために、新たな桟橋(デラウター桟橋/通称・観光丸桟橋)に面して、大規模な造船所が造られました。海に向かったH型の建物が特徴的な現在のホテルデンハーグは、造船所の経営者が賓客をもてなすための迎賓館としての機能をもった本館でした。かつては両翼の間にいくつものドックが造られ、さまざまな船がここから進水していきました。
現在はイーストゲート(東門)の隣に、ヨット修理工場『クロムハウト』が残るのみとなりました。
やがて街には念願の鉄道が走り、駅ができました。城壁はその役割を終えて一部を残して解体され、その外側にも街ができます。
ハウステンボス宮殿も拡張され、両ウイングと見事なバロック式庭園が造られて、今の形となりました。
【建物】ハウステンボスジェイアール全日空ホテル:モデルはアムステルダム中央駅。この建物は後に東京駅のモデルともなった。アムステルダム中央駅は、鉄道の駅であるとともに建物の背面に港があったことから、東側の時計台には帆船のための風向計が備えられている。南が“Z”で表されるのはオランダ語表記。
この頃から、運河は水はけのためだけでなく、街の交通網としても利用され始めました。花畑を見に街の人が多く訪れるキンデルダイクには、カナルステーションに併設してカフェー兼総合案内所が建てられました。白壁にオレンジの屋根が特徴的なこの建物は、もともと運河沿いのオープンカフェを併設したキンデルダイクの観光案内所でしたが、カフェ部分が運河船のターミナルとなり、また隣接してバス停も出来た頃から、観光客相手にはじめた「貸し自転車」があんまり好評なので、機械いじりが大好きなここの親父さんが、そっくりレンタサイクルショップ「フィッツ(オランダ語で自転車の意)」にしてしまいました。親父さんは今でも、街中の放置自転車を持ち帰っては、新たな「おもしろ自転車」を生み出すのに熱中しています(あっぱれレンタ(リ)サイクル!)。そういうわけで、カフェーを継ぐつもりでいた娘さんはこれに怒って、対岸の花畑の方に、小さなカフェを出してしまいました。・・・もっともこの親子ゲンカ、どうやら結果オーライだったようですけどね。
土地が平坦なオランダでは、自転車はもっとも手軽な乗り物で、鉄道などに積み込んで遠くまで行くことも出来るほど、優遇されているそうです。
【オマケ】この街の人々は芸術が大好きだったので、通りにはそれぞれ好きな画家の名前をつけました(レンブラント、モンドリアーン、ルーベンス・・・)。ですが、橋の名前は結構いいかげんで、「これを渡るとどこそこに行ける」「この橋はどの運河にかかっている」ぐらいの簡単さでつけたようです(チョコレートハウス前の橋がチョコラーテ橋、アートアカデミーの前の橋がアカデミー橋、シンゲル運河にかかるのがシンゲル橋・・・)。もっとも「ジョーカー橋(フリースラントとタンテ・アニーの間の橋)」の由来は、今ではナゾです。「ここを渡らないと先に進めない『切り札(ジョーカー)』橋」とでもいう意味なのでしょうか?
あと「24番橋(にじゅうよんばんきょう:ユトレヒト2期用地から、迎賓館横の旧テニスコートにかかる橋)」は、この橋がかかった20世紀末からこの名前ですが、いいかげんに誰か名前つけませんか?(笑)
20世紀(大正〜昭和):郊外の環境も整えられ、別荘地もつくられます。20世紀後半になると、街にはバスやタクシーも走り始めました。一時期は、バス・タクシーを運営する会社と、運河遊覧船を運航する会社が、互いを激しくライバル視して「お客さん争奪戦」を展開し、噂好きな街の人々を楽しませていましたが、今ではすっかり落ち着いたようです。
一方、それまで交通機関の中心だった馬車は交通手段としては次第に廃れていきましたが、貴重な原産馬フリーシアンホースの血統を絶やしてはいけないと、女王陛下がパトロンとなって保護に乗り出しました。おかげで馬車は今でも結婚式などで見ることができます。
街はすっかり観光名所となり、隣接するホテルなども増えていきました。港の奥はマリーナとなり、空港と街を結ぶ定期高速船も就航しました。山の手には高層マンションが立ち並び、リビングから街を見下ろす住環境が評判となりました。
【建物エピソード】:グーテンアペティート:アメリカに渡ったオランダ系移民の子孫が、祖先の故郷を懐かしんで内装を作ったため、さながら西洋人が描く日本のように「なんか違う」雰囲気に仕上がっている。アメリカ合衆国北部、とくにニューヨークはイギリスに譲渡されるまで旧称を『ニューアムステルダム』といい、オランダ系移民が多かった。今もニューヨークに残る「ハーレム(Harlem。マンハッタンの北東部の区域。1920年代から黒人居住地化)」「ブルックリン(Brooklyn。マンハッタン島南東のロング‐アイランド島西端に位置する。同区北西部は工業地帯で、黒人・プエルトリコ人が多く住む)」という地名は、オランダの街の名前に由来する。ちなみに「ブルックリン」は元々「ブルーケレン(Breukelen)」と言った。───余談だが、ナイアンローデ城のあるこのオランダ・ユトレヒト州ブルーケレンは、映画俳優 ルトガー・ハウアー の出身地でもある。
その隣のコンフェクショナリー(焼き菓子店)「タンテ・アニー」は、漁村の一軒家で得意のケーキを焼いては近所にお裾分けしていた「アニーおばさん」のお菓子が口コミで好評となり、10年以上前にこの街に店を出したもの。いまでは菓子職人(パティシェ)も雇った老舗・名店になっている。
海から生まれたハウステンボスは、「母なる海」を汚すことの危険性に早くから気づき、下水処理場なども整備しました。また、これまでに形づくられた街の美観を損なわないために、インフラストラクチャーはすべて共同溝をつくってそこに配備することになりました。これらはエコノミーとエコロジーの共存を支える、テクノロジーのたまものです。自然と人間(経済)の両方が幸せになるために、おしむことなく技術(テクノロジー)を磨いていく。これこそが、この街に暮らす人々が理想とする未来です。
海から生まれた「森の家」、自然と調和した街「ハウステンボス」は、これからも発展を続けるのです。
※この歴史は架空のものであり、実在の人物・団体等とは関係ありません。
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